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2024年08月14日 18時46分

戦後79年 広島で被爆 家族4人を亡くした女性が伝えたいこと

終戦の日を前に、戦争を経験した人の証言をお伝えします。14日は、広島に投下された原爆で家族4人を失った宮崎市の女性の証言です。

広島に原爆が投下されて79年となる8月6日に行われた原爆死没者の慰霊祭。参列者の1人、宮崎市の中津園子さん(87)も自宅で被爆し、祖父母と母、姉の4人を亡くしました。

(中津園子さん)
「私だけが助かった。それ自体とても苦しいですよね。亡くなった母たちの思いを伝えたい。きっと悔しいと思う」

(中津さんの手記)
「自宅は現在残っている原爆ドームから西へ1.5キロの位置にありました。8月6日の朝は雲一つない晴天であったと記憶しています」

当時、8歳だった中津さんは、自宅で母のいかさん、姉の品子さんの3人で、出かけようと準備をしていたその時、原爆が投下され、閃光とともに爆風が襲いました。

(中津さんの手記)
「爆風で2階建ての家は破壊され、気が付いたときは屋根の上に一人立って泣いていました」

母は、下半身ががれきの下敷きとなって逃げられず、4つ年上の姉は姿の見えない場所で泣きながら、助けを求めていました。

火の手が迫る中、駆け付けた次男に助けられ、その場を離れた中津さん。その時の光景を忘れることができません。

(中津さんの手記)
「母は、兄に厳しい口調で「園子を連れて逃げなさい」「あなたたちも焼け死んでしまう」。兄は私を背負い、母に別れを告げ、その場を立ち去りました」

(中津さん)
「人間ならだれでも助かりたい。やっぱり親だなと、「早く逃げなさい」って」

広島の市街地は一瞬にして廃墟と化し、死者は約14万人と推計されています。

夜になり、赤く染まる空を眺めながら、兄と2人で涙したということです。

(中津さん)
「兄と2人逃げたあと、母がどんな思いだったか。姉にどんな言葉をかけてあげたか」

戦争や原爆への関心が薄れつつあることにもどかしさを感じながら、中津さんは、被爆体験を伝え続けようと、二十数年前から語り部活動を続けています。

(中津さん)
「これが最後、これが最後と言いながら、きょうまで生かしてもらっている。小さな集まりでもいい。3人、4人でもいい。しっかり聞いてもらえる。皆さんが戦争に関心を持ってほしいと思います」

(中津さんの手記)
「戦争体験者の生の声はあと何年かで消え去るでしょう。核兵器のない平和な世界が1日も早く訪れることを願い、期待したいと思っています」

(参列者)
「昔、体験したことをもとに、何がいけないか、どう防げるかを若い世代が考えていかないといけないと思っていて、忘れちゃいけない」
「私たち若い世代も、原爆について知って、次の世代に伝えていくことが大事だと思いました」

助けられなかった母と姉。その苦しみや無念と向き合い生かされたことへの感謝を胸に、中津さんは被爆者としての生の声をこれからも届け続けます。

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