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特集
2021年01月25日
もう1つの「命のビザ」 宮崎市出身の外交官 根井三郎(2021年01月23日放送)
2020年12月に発売された「続 命のビザ、遥かなる旅路」。
ここにはユダヤ人難民を救った5人の外交官が紹介されています。
その中の一人が、宮崎市出身の外交官 根井三郎さん。
去年4月に見つかった一枚のビザ。
日付は1941年2月28日。
ウラジオストク 日本帝国総領事館 総領事代理 根井三郎の署名があります。
1902年 宮崎市佐土原町で生まれた根井 三郎。
「命のビザ」で知られる杉原千畝の陰で根井の外交官時代の経歴は謎に包まれていました。
多くを語らないまま90歳でその生涯を終えた根井。
しかしここ数年の研究で、根井に関する資料が次々と見つかりその功績に光が当たっています。
1939年、第二次世界大戦。
当時、ナチス・ドイツとソ連がポーランドに進軍しユダヤ人への迫害を強めていました。
身の危険を感じたユダヤ人難民は、国外脱出に必要なビザを求め隣国リトアニアのカウナス日本領事館 杉原千畝のもとに押し寄せました。
杉原千畝は1940年7月末から約1カ月間、独断で2000通余りのビザを発給しました。
家族を含むおよそ6000人の命を救ったとされ「命のビザ」として知られています。
1940年12月からウラジオストク日本総領事館の総領事代理を務めたのが宮崎市出身の根井三郎です。当時、ユダヤ人難民はシベリア鉄道を横断して日本に入りそこからアメリカなどへ入り脱出しようと考えていました。増加するユダヤ人難民の対応に苦慮した日本政府は根井に対し、ユダヤ人難民の入国を厳しく取り締まるよう命令しましたが、根井は国に忖度せず独断で人道的行動を優先しました。
杉原の思い、「命のビザ」を繋いだのです。
【フリーライター 北出明さん】
「友人から『知り合いの家で文書が見つかった』と連絡がありました。それが根井 三郎単独のビザだったのです。」
ビザを受け取ったのはポーランド出身のシモン・コレンタイエルさん一家3人です。
コレンタイエルさん一家が持っていたビザの裏にはモスクワのアメリカ大使館からビザ発給が却下された通知が書かれていました。
とにかく逃げなければならないと考えたコレンタイエルさん一家は根井さんの総領事館に駆け込んだのではないかと考えられます。
3人はその後無事、日本に入国。
1947年 アメリカに移り住み、フェリシアさんの娘 キム・ハイドンさんがビザを発見しました。
2016年に宮崎市で発足した根井三郎を顕彰する会は、根井三郎の功績を後世の伝える活動をしています。
80年の時を経て見つかったそのビザは歴史の陰に埋もれていた根井三郎の確かな功績を物語っています。